情報のメタ化
思考の熟成と、高次の抽象化

Metalisation
How to make it abstracted

いつしか、わたしたちの第二次的情報は、その媒体をアナログからデジタルへと移し、文字から画像へ、そして映像へと形を変えていった。より主体性や能動性を求められた活字文化もやがては廃れ、より気軽により身近で、ある種の「現実味」を感じることのできるテレビやSNSに目を向けるのは自明である。能動的な感性を育む第二次的情報である書籍から身を置いて、いかにしてわたしたちは立ち止まり、ふいに考え耽ることができるだろうか。

この「考える」という言葉は、わたしたちが想定するより遥かに重く現代の社会いにのしかかっている。日本の未来を育成する場所といえば、日本の義務教育だが、考えることを徹底的に阻害する。これはグライダー人間を温床する方法であるとともに、
考えることを学校教育では奨励しない。

最近は専ら、文藝春秋のウェビナーにて先崎先生や宮台先生のお考えを拝聴している訳だが、やはり非常に学術的であり、高次の上での議論であることがみて取れる。当領域において知見がないと、悔しくも理解が追いつかないことも少なくない。ドイツの社会学者・経済学者であるマックス・ウェーバーの理論をまとめた仲正昌樹先生の著書「マックス・ウェーバーを読む」では、そのテクストにおいての、"一般読者"への姿勢とその在り方についてこう持論を展開している。

古典を紹介するやり方として、『この作品には、現在日本社会が直面している危機状況にも当てはまるアクチュアリティが・・・』式のステレオタイプな言い方がある。そういうのをウリにする古典紹介本が最近やたらと増えている。しかし、そういう"一般読者"を過剰に意識した安易なサービスは、テクストの価値を伝え損なうことにしかならならい、と私は思う。
と、して以降のテクストの文体を決定している。

これは当たらずと雖も遠からず、媚びが招いた惨劇であり ─── "媚び"についてはぜひ、近々取り上げたいトピックである ─── このようなテクストは毅然とした姿勢であって欲しいと願っている。また、こういった学術的テクストにおけるその価値とは、より高次な抽象表現であり、安直な具体表現はメタから一般への希釈行為であり、その必要性は感じないという点において仲正先生の考えに全く同意である。

第一次的情報
あらゆる事象を俯瞰的に捉え、解釈すること

Branding, direction, planning,
produce for architecture and interior. Founded by Yoshida Ai
18-23 B1F Oyamacho Shibuya-ku
Tokyo 151-0065 Japan
©︎ etc. inc. All Rights Reserved
@etc.inc_